継桜王子(つぎざくらおうじ)は和歌山県田辺市中辺路町の神社。熊野九十九王子社のひとつ。
比曽原王子から曲がりくねった国道をたどると、旧道と新道の分岐に出る。下方の国道への坂を背に、上方の旧道を進み、道沿い左側に大きな森と鳥居が見えてくる。ここが継桜王子である。
天仁2年(1109年)の藤原宗忠の参詣記は、「続桜」の名で、根元が檜で上部が桜という稀有な木があることを報告している。その後、建仁元年(1201年)の藤原定家の参詣記や承元4年(1210年)の藤原頼資の修明門院参詣記に、継桜王子の名が見られ、早い時期から継桜が人々の注意を引いていたことが分かる。ただ、宗忠の参詣記には、続桜に至るまでに仲野河を何度かわたると述べられており、そうすると中ノ河王子よりも東側になければならないことになる。野中集落上部の現在地にあることが確実に確認できるのは江戸時代のことであるので、この間に移転された可能性がある。
江戸時代には若一王子権現ともいわれるようになり、野中集落の氏神になっている。1909年(明治42年)に近野神社に合祀されたが、 高台の上の社殿はそのまま残されて祀りつづけられた。戦後の1930年(昭和25年)になって、御神体が取り戻され、旧い姿に還った。
民俗と自然 [編集]
この王子の命名の由来となった継桜だが、何度かの代替わりを経ている。17世紀末から18世紀初めにかけて編纂された地誌『紀南郷導記』は、王子の正面にあった古木が枯れた後、紀州藩主・徳川頼宣の命により山桜に植え替えられたという。さらに1889年(明治22年)の大水害の際に再び倒れたため、王子から東側のやや離れたところに植えなおされたのが現在の継桜である。
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継桜と中辺路の秀衡伝説 [編集]
この継桜には、次のような伝説が伝えられている。奥州藤原氏の藤原秀衡が熊野に詣でた際、山中で夫人が産気づき男児を出産した。乳児を連れて参詣を続けるわけには行かず、熊野権現の夢のお告げを頼りに、岩屋に赤子を残し、参詣のたびを続けた。しかし、野中のあたりに差し掛かったとき、やはり我が子のことが気になり、それまでついてきた桜の枝の杖を地面に突き刺し、置いてきた赤子が無事ならこの桜も育つだろう、それが叶わなければこの桜も枯れるだろうと祈り、旅を続けた。帰路、ふたたび野中に着くと、桜は育っており、喜んだ夫妻は道を急いだ。赤子は、山の狼たちに護られて無事であった。この子が後の和泉三朗忠衡である。
この伝説の、野中に語り継がれているものは以上のようなものだが、上述の『紀南郷導記』では若干の異同がある話を伝えている。それによれば (1) 秀衡が野中の地に突き刺したのは杖ではなく、近くにあった桜の木の枝である (2) 秀衡が赤子を残した岩屋は乳岩と呼ばれる岩屋で、岩から乳がしたたり、赤子はそれを飲んで命をつないだ (3) 我が子を護った熊野権現の奇跡に感謝を表すために七堂伽藍を建立し、経典や武具を堂中に奉じた、などの相違点が見られる。『吾妻鏡』には陸奥国に新熊野社を勧請したとする記事があることから、秀衡が熊野を信仰してことは確かだと見られるが、熊野に参詣した史実は確認されていない。
どちらであるにせよ、桜の接木はほとんど不可能である。そのことから、戦前の植物学者・郷土史家の宇野縫蔵は、継桜の起源を、檜の古木が枯れて空洞化したところに桜が根付いたのだろうと考定している [熊野路編さん委員会 1973: 107]。こうしたことからすると、檜の台木に桜が継がれるという継桜の奇跡がまず先行し、次いで王子が設けられたり、熊野詣の功徳を説くために秀衡伝説が付会されるなどしたものであろう。
一方杉と南方熊楠 [編集]
この王子を特徴付けるものにはもうひとつ、社地を囲む鎮守の森の巨木群があり、集落の名をとって野中の一方杉(のなかのいっぽうすぎ)と呼ばれる。これら巨木のなかには樹齢800年以上ともいわれ、直径が2~3mを越えるものも9本を数える。日照や地形の関係のため、どの木もみな一様に南東方向の那智山の方角にのみ枝を伸ばしていることから、一方杉の名がついた。
この一方杉の森が今日に残るのは、多能の才人として知られた南方熊楠の働きによるところが大きい。熊楠は欧米遊学の後、田辺に居を構えると、1度の上京を除いて熊野を出ることなく生涯をすごした。熊楠にとって、熊野の山野は、同じ和歌山でも和歌山市などと異なる辺境の地であり、半熱帯と温帯の交錯する貴重な自然の残された土地であった。熊楠はこの地の自然に大きな関心を寄せ、粘菌をはじめとする植物の採集など、博物学上の大きな成果を残すと同時に、民俗にも目を向けていた。
1906年(明治39年)に神社合祀令が発されると、各地で小社の合祀廃絶が相次いだが、それは当時近野村と呼ばれた中辺路町においても例外ではなかった。加えて、熊楠が報告するところによれば、地元の有力者や一部の官吏が合祀令を悪用し、私利のために神社の土地や神社林の木々を売り払おうとする動きが見られた。熊楠はこの動きに抗議し、当時の東京帝国大学農学部教授であった白井光太郎らとともに、神社林の伐採を阻止すべく運動を行った。
1911年(明治44年)12月、継桜王子の神社林にも伐採がついに及んだが、かろうじて中心部の杉だけは救われたのである。しかし、これは幸運な例に属する。熊楠の奮闘も熊野全域に及ぶ神社合祀の流れを押しとどめるには至らず、南方熊楠の説得により伐採を免れた神社林も、この野中の一方杉の他にもいくつかあることにはあるが、ほとんどの神社は廃れて、結局は神社林を伐採され、姿を消した。
野中の清水 [編集]
継桜王子の前の崖下、国道311号旧道沿いに湧き出る水は、野中の清水と呼ばれている。日本名水百選のひとつに選定されていおり、現在も簡易水道の水源として、地元の人たちの貴重な飲料水・生活用水として使われている。
傍らには、松尾芭蕉の門人・服部嵐雪(はっとりらんせつ)と齋藤茂吉の句碑・歌碑が立てられている。嵐雪は、宝永2年(1705年)に仲間とともに伊勢と熊野を詣でたあと、田辺に向かう道中に句を詠んでいる。また、茂吉は、1934年(昭和9年)に土屋文明とともに熊野を訪れ、自動車で白浜に向かう道中に、野中の清水に立ち寄り、短歌を詠んでいる。